「学ぶ」

「ああ、もっと勉強させてやりたい」
障害児を持つ、友人が言った。
彼女の子は知的に高いから、まあ当然と言えば当然なんだけど。
「やっと勉強する楽しさが、今になってわかってきたようなのに。
ここまでで勉強は終わりで、あとは養護学校高等部で、
実習ずくめになるのが、ほんとに惜しい」
まったく、同感です。

まあ、うちのナツの場合は知的障害あるわけだけれど、
でも、一般人はもちろんのこと、障害児の関係者にも多いのが、
「知的障害者に勉強なんか教えなくていい」
という考え。

「国語や算数教えるくらいなら、ボールペンの組み立てやらせたほうが
ずっと本人のためになると思うんです」

と言う中学の先生に会ったことがある。
そのときは反論するだけの考えがこちらになかった。ただ、
聞いてて、モヤモヤ感がすごくあった。

今なら言える。

「ふざけんな!」

そんなひとに、教えられたくないね、わが子を。(幸い、私とは無関係だけど)

そういう考えが、知的障害者の生活の幅、人生の幅を狭めてるんじゃないか。

教科学習の意義を考えないような人が、現場で教えてるのか。
どういうことなんだろう。

別に、教科書に沿った内容を教えてくださいというわけじゃない。
けれど、知的障害があったって、
ひとつひとつ、知らなかったことを知って、
わからなかったことをわかるようになるという喜びは、必ずあると思う。
興味の幅が広がって行くのは、決して無意味なことじゃない。

知的障害者に歴史や地理を教えたってしょうがないと思うのはどうしてなわけ?

たとえば旅行先で、授業で聞いたことのあることに出会ったとき、
うちのナツなら、

「学校で習ったよ。私、知ってますよ!」

って言うよ。
テレビのクイズ番組見てても、自分が習って知ってることを答えられたとき、

「学校で習ったもん!地理、得意もん!(得意だもん、のナツ流省略語)」

って、すっごく得意げで、嬉しそうだよ。

逆に、家族で旅行に連れて行ったあと、その旅先のことを、授業で習ったりして、
興味を深めることだってあるし。

国語や数学(算数レベルだけど)だって、ナツは大好きだよ。
今でも弟より計算早くて、頼られると嬉しそう。

「さすがナツだねぇ」と、
誉められると、嬉しくて照れてる。

「勉強好き、学校楽しい」

って、彼女は言う。
それは、学び、獲得する喜びを、彼女に関わった先生方が、しっかりと教えてきてくれたからじゃないのか。

あの子なりに、着実に成長していってると、勉強の様子を見ていると、本当に思う。
大きくしか書けなかった字が、ずいぶん小さくなった。
本読みも、なんの話だか、聴いててさっぱりだったのに、今じゃ、ちゃんとわかるように
文節で区切って読めるようになった。



「この子は勉強するの嫌いなんです」

っていう人(親や先生)によく会うけど、
勉強は楽しい、って思えるような授業をしてもらってこなかったせい、とは考えられないの?

障害児を教える、学校の先生たちは、
子どもに「学ぶ喜び」を与えることを、
「知らなかったことを知る喜び」を与えていることを、
もっと自覚してほしい。

興味の幅が広がれば、なにかに興味を持てれば、

「今度はあそこへ行ってみたい。
どうやって行くんだろう、
行くにはいくらお金がかかるんだろう、
時間はどのくらいかかるんだろう、時刻表はどうやってみるんだろう…」

そこから派生する、学びの材料は、いくらだってあるはずだ。

別に、微分積分を教えてほしいと言ってるわけじゃない。

でも、障害児に勉強を教えることを、ムダ、とは言わないでほしい。
ボールペンの組み立てができる人間になったって、それが何?

いったい、それが、なんぼのもんなわけ…?


「長時間、ひとつのことをコツコツできるように訓練したほうが
将来役に立ちますから」


とも、言ってたっけなぁ、あの先生。

「将来」…それは、先生が決めることじゃない、と思いますよ。















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