障害受容とは、「点」ではない。

これは、今日、ある人と、「障害受容」について話していて思ったことだ。
よく、福祉関係者などは、「あのお母さんは障害受容ができていない」と言う風に、言葉を使うことが多いと思う。
しかし、この使い方は、本当は正しくない。(と、私は思う)

というのは、たいていの場合、その使われ方は、

「自分の子に障害があることを認めていない」

という意味で使われているからだ。

「障害受容」=「障害があると認めること」

では、ないのだ。実は。

「障害があると認める」というのは、ほんの入り口にすぎない。
「障害受容」というのは、実は、その入り口から始まる、長く、蛇行した、道のりなのだ。

その道のりそのものと、その道を歩いて到達する丘の上から、それまでとは違った景色を見ること、
それを、「障害受容」というのだと思う。

わかりにくいかな。


一般的に、障害受容と言うと使われるのが、段階的な説明だ。

ショック、否認、悲しみと怒り、適応、再起の5段階、

子どもの障害を知った親は、この心理的過程をたどる、とされている。

それは別に間違いではないんだけれども、一方で、
「障害受容のらせんモデル」という考え方がある。

私がこの考え方に触れたのは、吉田友子先生の著書だったような気がする…
いや、別府哲先生の著書だったかな…
まあ、いいけど。

私は、障害受容について説明するなら、この「らせんモデル」のほうがしっくりくると思っている。

すなわち、障害受容とは、

あるときは、「あの子はあの子でいいんだ」と思ったり、
「あの子さえ、ああじゃなきゃ…あの子のせいで…どうして私ばっかり、こんな目に…」と思ったり、
「受容できたつもり」で前に進もうとすると、
「やっぱりダメだ、私はあの子のことを受け入れられてないんだ、受け入れているフリをしているだけだ」と落ち込んだり…、
そんな、肯定と否定、ポジティブとネガティブがない交ぜになって、交互にやってくる、
そんなことを繰り返しながら、それでも実は、決して堂々巡りをしているわけではなく、
確実に少しずつ、上に登っている、

そんな過程をたどる、ということ。

そういう状態を、学者の人たちは、「螺旋」のように、回転しながら上昇する、と捉えた…らしい。

それを私のイメージで言いかえると、
障害受容とは、「点」ではなく、「線」だということ。
いや、「線」というより、蛇行した、ゆるい坂道なのだ。やっぱり。

(というようなことを、先輩お母さんも言っていたっけ)

坂を少しずつ上がって行くと、だんだんと視界が開けてくる。

坂を登るうちには、途中でつまずいたり、穴ぼこにはまったり、時にはコロコロと手から転げ落ちたものを
拾いに戻るかも知れない。

それでも、実はちょっとずつ上に登っていて、
気がつくと、ある日、いつのまにやら開けた景色が眼前に広がっていることに気がつくのだ。

私の場合は、とりあえず、小さな丘の上には、出ている。
それは、確かに、丘の下の、道の入り口にいたときとは、だいぶ違った景色になっている。

でも、正直、いつ丘の上に到達していたのか、自分でもはっきりわからないんだ。

でも、間違いなく、入り口で見てた景色とは、違う。
今、私の目の前に広がる景色は。


正直、坂の途中にいる間は、自分が坂の何合目にいるかもわからない。
というか、自分じゃとっくに、頂上に到達したつもりでいることが多いんじゃないかな。
私もそうだったけど。

でも、実は到達してなかった。
実は、気がつくと、後ろ向きに歩いてたりしたもんだ。

まだ5合目くらいにしかいないのに、頂上に到達した人間のフリをしていた。
そういうことだった。


何年もたって、「フリ」をすることがなくなった自分にふと気がついて、
そのとき初めて、ああ、丘の上に来ていたんだなぁって、思ったわけ。

でも、これって、まだ階段で言うと「踊り場」みたいな丘なんだよね。

まだまだ…上には上があるんですよ。


吉田友子先生は、障害受容は、一生かかったっていい、って書いてらっしゃった。(と、思う)

だから、私は、いまだにまだ、本当には受容できていないのかもしれない。
けど、そんな自分でも、まあ、いいや、と思えるし、
別に、受容できた立派な親の格好なんかしなくたっていい、と思う。

みっともない自分でいい。

時には弱音を吐けばいい。子どもの愚痴を言ってもいい、と思う。

それでも、昔とは、立っている場所は、明らかに違うんだから。
苦しい道のりだったけど、
もう、元に戻ることは、ないからさ。

それで、いいと思うのだ。
それでいいと、思えるようになったのだ。

そうそう、「障害受容できている親」というのを、
「丘の上に到達した人」みたいな抽象概念でなく表わすとしたら、
それは、

「腹をくくった人」

だと思う。

「腹をくくった」、
すなわち、自分の子に障害があることを認め、
ただ認めただけでなく、それを恥じたり、子どもを過大評価したり過小評価したりすることなく、
子どもの、「そのまんまの姿」を受け止めて、
堂々と、子どもと、その障害と、共に歩いていこう、と思えた人。
そして、「障害者」という大きなくくりの中にわが子もいるんだ、ということを、卑屈にならずに認めている人。

どうしても、「できた人」と「できてない人」に分けたいなら、
そういう言い方ができるんじゃないかな、と、思う。

それでもね、「そのまんまの姿」の受け止めって、やっぱりそんな簡単じゃないから、
気がついたら過大評価してたり卑屈になったり…そんなことは、誰でも、ある程度あるとは思うけどね。

「障害者」という大きなくくりの中にいることを認めている…と、付け加えたのは、
自分の子には、確かに障害があるけれども、それは認めてるんだけれども、
もっと障害の重い人たちと「うちの子を一緒にしないで」と思ってるような人ってのは、
やっぱり本当の意味で「腹がくくれて」ないと思うんで。

障害に「上下」なんて本当はないんだけど、
それが納得できてないうちは、
やっぱりまだ、俗世間に未練たっぷり、腹はくくれてません…ってことなんじゃないかと。



追伸:小指は、ずいぶんよくなりました。
これは小指なしで打ったけれども、そろそろ、小指を、バンドエイドだけにしても、
いけそうな気がします。ご心配かけました。
「小指を包丁で切った」と言ったら、「なにかのケジメですか」と聞かれましたが(-_-;)
いや、ケジメつけなきゃいけないようなことは、別になかったはずなんですが…


それとも、運命の神様が、私にケジメを求めてたのかな…

















この記事へのコメント

きょろ
2009年11月28日 01:48
人生にも通じる話だね。
何事も受け入れること、まず自分が変わることが大事だと思うわ。
2009年11月28日 17:54
>きょろちゃん

さすが、40にもなると、深いね、コメントが(笑)
「自分が変わること」
確かに。
これが、見事に変わる人と、なかなか変われない人と、いるけどね…

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