「地域で自立した生活を実現する」ことに関する私的考察(てほどのもんでもない)

コメントへの返事が滞っており、すみません
ところでこれは、
過日、私が書いたある文章からの抜粋です。
障害者が地域で自立した生活を送ることについて書いた文章です。
思うところあって、ここにも載せてみます。


地域で自立した生活を実現する」ということは、必ずしも就労によって
為されるとは限らない。

たとえ重い障害があっても、身の回りのことが自分でできる力をできるだけ身につける、
金銭的報酬につながらずともなんらかの社会的な役割を担う、
または自己決定による主体的な生活を送る力を身につける、などによっても
「自立した生活」は成立するものと考える。
 
そういう意味で「自立」していくためには、人としての基礎を築くことが
なによりも重要である。そのためには職業的訓練に偏らず、
人を好きになること、
人と関わることができるようになること、
自分の身の回りのことや日常生活を自分の力でできるようになること、
できない場合困った場合には人に助けを求められるようになること、
さらには人といることを心地よく感じられるような体験、
人と力を合わせてなにかを行うことに充実感を感じられるような体験をすることが必要となる。

 さらに、自分自身の生活の質を高めることによって、
生きることに意欲的な人格が形成されるものと考えられる。
そのためには、さまざまな体験により、興味の対象・幅を広げる必要がある。
障害があるがゆえに、日常生活における体験が乏しくなりがちであるため、
その点を補うことが、健全な育ちを助けるものと考える。




大急ぎで書いたものなので、
ちょっと文章的に整理されておらず、イマイチな感じですが、
今、私が考えていることの一端を表しているかなと思って、ここに載せてみました。


補足すると、

障害がある人が、
人から援助を受けることが悪いことではないということ。

社会のお荷物にならないために、給料が稼げることになることを目指す
という発想はおかしいと思うということ。(目指すなら、その人個人の生活の充足のためであるべきだと思う)

人は、誰にでもその人らしく生きる権利があり、
その人らしく生きるということが、自立した生活を送っているということになるのだと思う、ということ。

「その人らしく生きる」ことができているのであれば、お給料をもらっていようがいまいが、
そこで価値の上下がつくものではないということ。

学校というものは、人としての基礎を築くための教育を施す場であって欲しいということ。

職業訓練をする場合には、本来の教育的目的を見失ってはいけない、ということ。



…重い重い障害があって、その人が目の動き、瞬きでしか意思が伝えられなかったとしても、
それで自己決定した生活を送っているのなら、それだって自立した生活。
金銭的にも身体的にも、人の世話にならずに生きることを、「自立した生活」というのなら、
障害者にそれを求めるなんて、人権侵害なのだ。

障害者が人の世話を受けなければ生きていけないのは、なにも彼らのせいではない。
誰かが背負わなければならないものを、たまたま背負っているだけなのだから。











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